7CM理論-機能の正体(概要・動機編)
ここから先は、新しい理論体系『7 Color Materials』の内容となります。従来の音楽理論等や、聴いてる人の感情から逸脱するような表現や整理が生じる可能性がある点、ご理解の上読み進んでいただきますようお願いします。
記事の構成、内容、公開スコープは予告なく変更することがあります。
和音としての機能性を定義していく。今回はその概要編である。
考える対象を考える
前回までに7CMの音が持つ機能の分類記号4種(強弱含めて7種)を定義した。さてこれですべて音楽はお見通しに…って思ったら早速困る。すべての音を逐一見ていかなければ…これは現実的に無理である。
しかし実際のところを鑑みてみると、我々の心の中を泳いでいくメロディは置いておいて、メロディ以外についてはある程度の単位を持った流れになっていて、それが物語性を生み出しているように思える。その単位は何か。それはコードである。
一定の音の集まり(=コード)が音楽世界を照らしている。キミ(聴者)がメロディを追いかけるとき、コードはヒカリのようにキミを包み込む。
そのヒカリがどう動くかで、音楽世界の物語・出来事は変化していく。
コードという単位
コードというひとまとまりの単位で物語が動いている、と考えるのはとても便利である。この楽器も、その楽器も、あの楽器もコード構成音に寄り添えばよい。時々コードからはみ出したりもすれば省略したりもする。
FM7→G→C を F→G6→Cadd9 で演奏する
それでもコードという団子で見なしておけばある程度の物語性は見える。一音一音正確に把握する必要はなく、ざっくり「コード」という団子で見るということだ。
ドミソ、ドミシ、ドミレ、ドミソシ、ドミソレ、ドミソシレ…これらは和音として別物だが、細かく考える必要がないとき、コードという物差しにおいてはCメジャーコードという団子として考えることができる。
そしてコードというものの有用性のもう一つが、コードによって7CMを感じさせているところである。
「ドミソ」を鳴らした、今自分は「ドとミとソ」がある7CMの中にいると感じる。
機能と同時に、複数の構成音が「今どこ(7CM)にいるか」の雰囲気を教えてくれている。一般的にはその7CM側の雰囲気も含めてコードの性質として語られる。
コードはその複数構成音が7CMを感じさせる
コードで測ることの弊害回避の痕
しかし、旧約聖書(従来の音楽理論)を理解していくにつれ、様々なところでコードという単位で音楽を押し測ることの弊害を回避したような痕が見えてくる。
オルタードコード
例えばオルタードコードはメジャーコードか、という話において
- オルタードスケールを3度堆積で積むとm7♭5
- マイナー系コード
- オルタードスケールはドミナントで使う
- →コードがドミナント
- →ドミナントはメジャーセブンス
- メジャー系コード
- →ドミナントはメジャーセブンス
- →コードがドミナント
とどちらでも考えられてしまう状態になる。この矛盾の解消として、「3度堆積で積んでもメジャー系コードになる」ように、スケール側の”考え方”にしわ寄せがいったのではないかなと見える。つまり、4つ目の音=減4度の音を長3度として見なして整合性を取ろうとねじ込んでるように見える。
※ちなみに私の”聴こえ方”としては、オルタードスケールに重複幹音名は聞こえないので、♯9ではなくm3で聞こえる。Galtなら{ソ、ラ♭、シ♭、ド♭、レ♭、ミ♭、ファ}
コードの転回系の扱い
また別の例で転回系についての認識と整理の話がある。「コードは転回しても構成音同一で同じ性質のもの」と捉えている人も多いと思う。
『in Cにおいて、CもC/EもC/Gも同じⅠだ。トニックとして考えよう』
一方で、ある聖書(音楽理論)ではⅠの第2転回形はⅤに進むべきとされる。
『in Cでいうところの、C/GはGに進むべきだ』
「厳密には~」とか「クラシック中だけの世界でしょ」としていいものかというと、聖書(理論)に整理されてるだけあって、繊細に異なるもので無視できない。これを取り込むには「コード」という団子に「転回」という例外で補強が必要となる。
※これ自体がダメということではなく、「コードを中心に測る」という主軸から派生した例外に対して、補正が必要になったように見えるっていう整理の経緯だけの話であり、その整理内容や正当性について非難するものではない。
動機と方針
こういった「3度堆積構成音団子で測ってきたけどちょっとうまくいきそうにないところの補正」のような課題を解消しつつ、かといって細かくしすぎて全ての音を評価するようなことのないポイント、単音以上コード未満の自由度の高い単位を見ていく。
音を束ねて単音と見なす
ところで、コード自体も何かに寄り添って感じたり、もっと集約できたりしないだろうか。例えば、in CNMを大いに満喫した心の状況で、最後にGを聴いて一瞬の無音。この後望む音が必ずある。そこに以下2パターンの着地があったらどうだろうか。
- 高音部でCコード(ドミソ)
- 低音部でド
どちらも、「これだ!トニックだ!」って気持ちになるだろう。後者に関してもう少し掘り下げると、単音にもかかわらずCコードのような明るさをドに感じたりもするのではないだろうか。
ドレミファソラシのあとのドは単音でも明るく感じる
これは2つの見方が出来て、
- 高音部のドミソは単音ドとして集約できそう
- 低音部のドは機能としてドミソと同等そう
という2点である。同じことを逆目線で評価しているだけだが、これが後で重要になる。
1の点で、簡単な例で雑に言ってしまえば「ドミソの見なし単音化はド」「ドファラの見なし単音化はファ」というものだ。つまり、コードの団子を更に単音にまで圧縮する。機能として音たちを束ねて単音と見なす感覚である。
和音は複数の音をまとめて機能として1つの単音とみなすことができる。
単音化したものを機能として見る
束ねるといってもさっきの簡単な例はよいとしても、F/GとかCadd(9,13)のような複雑化したものはどうするの?なんて疑問もあると思う。そういう形式も含めて「音の束ね方」という概念で記述していく。そうして単音化した束を機能として分析していく。
音のまとめ方を束と呼ぶ。
また、2の点のフィードバックとして「ベース帯域の単音」の機能も重要視する。
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